日本のプロ野球界の、いや戦後の日本そのものの発展を背負ってきた長嶋茂雄さん。
東京六大学野球のスター選手が、プロ野球のスーパースターになり、野球だけでなく日本の高度経済成長期自体を照らしてきたことは言うまでもない事実でしょう。
今回は、そんな長嶋茂雄さんの家族について調べていきたいと思います。
目次
長嶋茂雄の家族構成
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現在の千葉県佐倉市に生を受けた長嶋茂雄さん。
その家族は、父親、母親、長女、長男、次女、次男(本人)の6人家族です。
現代の家族構成から考えると家族数が多いと思いますが、当時はこのくらいの子供の数は、比較的一般的でした。
では、それぞれを見て行きましょう。
長嶋茂雄の父親:長嶋利
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長嶋茂雄さんの父親は、長嶋利さん。
地元の町役場で助役をしていた長嶋利さんは、若かりし頃は村芝居の女形を演じ、人気を博していたそうです。
人を魅了する才能は、父親譲りであろう長嶋茂雄さんのルーツはここにあったのかもしれません。
役場の助役は、市長などのサポート役としてナンバー2のポジションですから、それなりに裕福な家庭だった可能性が高いでしょう。
また、町役場で働くためには字の読み書きは必須でしたので、ある程度の教育を受けた育ちであることがわかります。
高校時代から野球選手として注目を集めていた長嶋茂雄さんですが、将来を考えた父親は、プロ球団・読売巨人軍からのスカウトを黙って断り、長嶋茂雄さんを立教大学へと進学させました。
このことで、長嶋茂雄さんが激怒したようですが、結果として大学卒業後に読売巨人軍に入団しています。
なお、長嶋利さんは、長嶋茂雄さんが立教大学に入学した年である1954年6月に急逝されたそうです。
長嶋茂雄の母親:長嶋ちよ
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長嶋茂雄さんの母親は、長嶋ちよさん。
戦前戦後の日本では、母親は専業主婦が一般的で家事炊事、育児をこなすのが大きな役割でした。
長嶋茂雄さんが子供のころは、第二次世界大戦中、戦後であり、物資が乏しかった時代です。
野球道具や衣服などを手作りしてくれたり、父親が急逝した後の家計を支えるために野菜の行商に出たりと、苦労をされたそうですね。
国家自体が豊かではなかった昭和初期から中期にかけては、日本全体で必死に生き抜いてきた時代ですから、それなりの強さや厳しさ、覚悟を持って生きたのではないでしょうか。
長嶋茂雄さんはプロ入り前に、当時強豪だった南海球団と入団交渉を進め、入団が決まりかけていました。
しかし、母親の「遠くに離れてしまうのでせめて在京球団で」という懇願から、読売巨人軍への入団に傾いたと言われています。
そんな長嶋ちよさんは、1994年に老衰で亡くなり天寿を全うしたそうです。
長嶋茂雄の姉:長嶋春枝(長女)
長嶋茂雄さんの姉は長嶋春枝さん。
一番上の姉にあたり一般人であるため、詳しい情報はありません。
長嶋茂雄の兄:長嶋武彦(長男)
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長嶋茂雄さんの一番上の兄は、長嶋武彦さん。
長嶋茂雄さんより7歳年上であり、野球をはじめるキッカケになったのが長嶋武彦さんでした。
子守がてらなのか、自分の野球の練習によく一緒に連れていったといいます。
ちなみに、当時は人数が少ないときは一塁と三塁と本塁を三角形に結んだ「三角ベース野球」にしていたそうですね。
自分より体の大きな年上の少年たちが野球をするのを眺めながら、見様見真似で野球を覚えた長嶋茂雄さん。
独自の観察力や洞察力、読みの鋭さはこういったところから生まれたのかもしれませんね。
長嶋茂雄の姉:長嶋藤枝(次女)
長嶋茂雄さんにの二番目の姉は、長嶋藤枝さん。
こちらも一般人であること以外は詳しい情報はないようです。
長嶋茂雄(次男)
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そして、長嶋茂雄さん本人です。
1936年2月20日生まれで、2024年現在88歳。
日本の野球界の超スーパースターにして生けるレジェンド。
野球界の残した記録と功績は、計り知れないものがあります。
六大学野球のほうがプロ野球より人気があった当時。
「あの立教大学の長嶋茂雄がプロ野球に行く、それならプロ野球を見ないと損だ!」
そんなことから、日本のプロ野球人気が高まっていったのは、あまりにも有名な話です。
通算安打数は2471本で日本歴代9位、天皇陛下の観覧試合などでの豪打をはじめとする数々の記憶に残る名プレーは、まさに球界のレジェンド。
「いわゆるひとつの」「ん-どうでしょう」などは、昭和史に輝く名台詞として今なお親しまれていますね。
その言葉の中でも引退時に発した「我が巨人軍は永久に不滅です」という言葉は、昭和を代表する名言として人々の心に刻まれました。
長嶋茂雄の両親同士の仲
長嶋茂雄さんの両親同士の仲については、詳しい話が残っていませんでした。
しかし、四人の子供たちを共に育て上げてきた訳ですから、二人にしか作れない関係性や信頼、絆があると思われますね。
長嶋茂雄の両親の馴れ初め~結婚に至るまで
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こちらについても、詳しい情報は残されていませんでした。
昭和初期の結婚については、知人の紹介でお見合いのような形式を取ることも多かったようです。
他のケースでは、職場の同僚の親戚、親戚からの縁談の勧めなどもあったでしょう。
長嶋利さんと長嶋ちよさんも、そのような形で縁談が組まれ、結婚に至ったものと想像します。
長嶋茂雄の両親が長嶋茂雄に遺した言葉
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長嶋茂雄さんの両親が、長嶋茂雄さんに残した言葉。
それは「努力しなさい」だったのではないかと思います。
母親の長嶋ちよさんは兼ねがね、この言葉を子供たちに伝えた、といわれていますね。
長嶋茂雄さんの現役時代のプレースタイルは、しばしば「動物的勘」や「勘ピューター」などと表現されます。
しかし、実際には投手の得意な球種やコースを徹底して観察・分析して、傾向に合わせて対策を持って打席に立っていたそう。
これは、相手の傾向を知る努力、野球というもの自体を理解する努力、傾向に合わせて打つ技術習得のための努力の現れです。
また、昭和という時代の初期~中期は、現在ほど物質や環境に恵まれていなかったことから、人間全体において忍耐力や努力に対してシビアな捉え方をしていたと思われますね。
長嶋茂雄の実家はどこ?
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長嶋茂雄さんは、千葉県印旛郡臼井町の出身です。
現在は市区群統合により千葉県の佐倉市となった場所ですね。
臼井駅から徒歩10分強のところに位置する長嶋茂雄さんの実家は、敷地面積が約600平方メートルと言われます。
父親の名義であったものが逝去により兄の長嶋武彦さん名義になり、その後は兄の息子の名義になったようです。
現在は写真のように空き家になり、そのままにされているとのことでした。
長嶋家の教育方針エピソード
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先ほども触れましたが、長嶋家の教育方針は「努力」です。
母親自身も、父親が亡くなった後の家計を支えるために、行商を行って必死に努力しています。
母親は、長嶋茂雄さんに「何事も努力しなければ得られない」という教えを刻み込んだそうです。
プロ野球選手になった長嶋茂雄さんは、試合前夜には相手の投手を思い浮かべながらバットを振ってシミュレーションしたといいます。
そうした「努力」の積み重ねが、「天才的ひらめき」と呼ばれる活路を長嶋茂雄さんに授けたのではないでしょうか。
感覚や感性に到達するための弛まぬ努力、これが「スーパースター長嶋茂雄」の真骨頂なのです。
長嶋茂雄と兄姉のエピソード・仲
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長嶋茂雄さんは末っ子でした。
兄とは7歳差、二人の姉の詳細情報はありませんが、10歳前後の年齢差があると思われます。
兄姉との仲は良かったというよりは、「可愛がられた」「面倒を見てもらった」という方がフィットするのかもしれませんね。
兄は、幼い長嶋茂雄さんをよく野球の練習に同行させたといいます。
弟の面倒を見る兄の責任感、年上の兄に対する大きな憧れ、そんな関係性が伺えますね。
兄が所属していた野球チームに入った長嶋茂雄さんは、兄の指導の下で内野手として活動したそうです。
もしかすると兄である長嶋武彦さんがいなければ、「四番、サード長嶋」はなかったかもしれません。
長嶋茂雄と嫁・長嶋亜希子の家族構成
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では、ここからは、長嶋茂雄さんが結婚してできた家族について見て行きます。
長嶋茂雄さんの家族は、嫁の長嶋亜希子さん、長男の長嶋一茂さん、次男の長嶋正興さん、長女の長嶋有希さん、次女の長嶋三奈さんの6人家族です。
家族それぞれが、なかなかの個性や経歴を持ったスーパー一家であることがわかります。
嫁・長嶋亜希子
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長嶋茂雄さんの嫁・長嶋亜希子(旧姓:西村)さんは、1943年1月5日生まれで、長嶋茂雄さんの7歳年下です。
東京都渋谷区出身の長嶋亜希子さんは、名家の裕福な家庭で育ち田園調布雙葉中学校・高等学校に通いました。
同校在学中にアメリカに留学、ミネソタ州の聖テレサ大学を卒業した経歴があり、英語、フランス語、スペイン語が堪能であることでも有名ですね。
長嶋茂雄さんが、英語を交えた独自のコミュニケーションを使うようになっていったのも、語学堪能な長嶋亜希子さんの影響とも言われています。
「魚偏にブルー」「インフレ(インフルエンザのこと)」など名言の根源になっているのが長嶋亜希子さんということになりますね。
容姿端麗で頭脳明晰な長嶋亜希子さんは、1964年に行われた東京オリンピックでコンパニオンを務めるなど、女性の社会進出の足掛けとも言える活躍でした。
当時の女性としては、かなり優秀で個性あるふれる活躍をされていたのが長嶋亜希子さんです。
晩年は、長嶋茂雄さんの個人事務所である株式会社オフィスエヌの代表取締役を務めていました。
長男:長嶋一茂
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長男は、タレントとしても有名な元プロ野球選手の長嶋一茂さん。
1966年1月26日生まれの長嶋一茂さんは、2024年現在58歳。
多くのレギュラー番組を抱え、タレントとしての年収は1億円を超えると言われる人気タレントの長嶋一茂さん。
父親譲りのエンターテインメント性と独自のコメントは秀逸です。
本格的に野球をはじめたのは高校からですが、持ち前の身体能力ですぐにレギュラーになり、立教大学でも1シーズン11本塁打を放つなど才能を発揮。
ヤクルトスワローズにドラフト1位指名され、後に、長嶋茂雄監督の下で読売巨人軍でもプレーしましたね。
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巨人時代には、あのミスター三冠王・落合博満さんのバット持ちを任せられるなど、長嶋一茂さんならではの野球トークも魅力のひとつです。
古田敦也さんをはじめとする多くの野球選手が「圧倒的な才能があった」と語る長嶋一茂さん。
その才能が爆発したのは芸能界だったことは、今では笑い話として各所で語られています。
次男:長嶋正興
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長嶋家の次男は長嶋正興さん。
1970年9月26日生まれで、2024年現在53歳の長嶋正興さんは、元レーシングドライバーとして有名ですね。
大学時代からレーシングドライバー活動をはじめて、卒業後はプロとして活躍。
フォーミュラ・トヨタ、全日本F3選手権、全日本GT選手権などへ参戦し数々の優勝、入賞を飾るなど大きな実績を残しています。
父親譲りの高い身体能力が大きな武器となったこの実績は、モーターレース界からも定評がありました。
2008年以降は、ドライバー業をセーブし環境活動などに身を投じています。
後に、環境管理士の資格を取り、環境保全や環境維持のための活動をメインに据えて活躍していますね。
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その知名度やルックス、話題性から2000年には「チオビタドリンク」のCMにも出演しています。
長嶋一茂さん同様にメディアでの登場回数も多いスポーツ選手という側面があったため、当時は「長嶋兄弟」と言われたこともありましたね。
長女:長嶋有希
長嶋家の長女は長嶋有希さん。
長嶋家の四人の子供のうち、唯一一般人であるため正確な情報はありません。
しかし、「障害がある」「養護学校に行っていた」「社会訓練として工場で働いている」などのウワサがありました。
また、「うつ病などの理由で引きこもっている」などと言われたこともありましたね。
また、色々なことを隠すために海外にいる、などという情報もあります。
しかし、次女の長嶋三奈さんが長嶋茂雄さんの個人事務所の社長になってから、役員であった長嶋有希さんを解任した、という報道がありました。
この報道が事実となると、前半の内容がほぼほぼデマだということになりますね。
真相はわかりませんが、情報がないと様々な憶測が飛び交うことだけはよくわかりました。
次女:長嶋三奈
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次女の長嶋三奈さん、1968年6月3日生まれで現在56歳。
スポーツキャスターとしてテレビ朝日で勤務し、後にフリーキャスターとして活動されました。
また、長嶋茂雄さんの個人事務所の代表取締役社長も務めています。
人気に火がついたのは「ニュースステーション」のスポーツコーナーを担当したことでしょう。
久米宏さんとのテンポのいいやり取りは、当時評判になっていました。
そして、長嶋三奈さんといえば1998年から2013年までメインキャスターを担当した「熱闘甲子園」でしょうね。
高校球児たちの熱く青く爽やかなドラマを、熱量たっぷりに届ける姿は、皆さんの記憶に新しいところではないでしょうか。
一時期は数多くの番組に出演し、メディアでも頻繁に見かけていましたが、近年ではその活動はやや落ち着いてきたようで、年齢に合わせて安定的な活動をされている印象です。
長嶋茂雄と嫁・長嶋亜希子の馴れ初め~結婚に至るまで
画像出典元:まろぐ
では、長嶋茂雄さんと長嶋亜希子さんの馴れ初めや結婚にいたるまでを見てみましょう。
二人の馴れ初めは、先ほど少し触れましたが東京オリンピックの際の報知新聞社主催の対談でした。
この企画で長嶋茂雄さんが、ひと目惚れしたことがキッカケとなり猛アタック。
対談後、すぐにデートの約束を取り付けたとも言われています。
そして、なんと出会って約40日でスピード結婚に至ったのです。
もしかすると、お互いに対面する前から好意を抱いていたのかもしれませんが、衝撃のスピード婚に世間は湧きに湧きました。
結婚したとき、長嶋茂雄さんは28歳、長嶋亜希子さんは21歳だったそうです。
長嶋茂雄と嫁・長嶋亜希子の夫婦生活のエピソード
画像出典元:ウィキペディア
野球においては努力家で天才の長嶋茂雄さん。
そんな夫を内助の功で支えた長嶋亜希子さんは、遠征時の荷造りなどもしていたそうです。
野球道具のことを一生懸命勉強して、グローブやスパイクのお手入れなどもしていたといいます。
そんな二人を世間は放っておく訳もなく、マスコミ各社が追いかけます。
あるとき二人の外出を追いかけていたマスコミに対して、長嶋茂雄さんが「いい加減にしてくれ、僕たちにもデモクラシーがある!」と注意したそう。
きっと「プライバシー」と言いたかったのでしょうが、どのような局面でも明るく不思議な空気に換えてしまう長嶋茂雄さん。
魅力あふれる天真爛漫さが長嶋亜希子さんのハート射止めたのでしょうか。
野球以外では、天性と感性で周囲を沸かせた長嶋茂雄さんですから、長嶋亜希子さんにも様々なことが起こったでしょうね。
長嶋茂雄の嫁・長嶋亜希子は2007年に急死
そんな長嶋亜希子さんですが、残念ながら2007年に心不全で64歳で急死してしまいます。
結婚と出産を経て、1970年前後には膠原病という女性に多い病気を発症したとされる長嶋亜希子さん。
膠原病とは、全身の倦怠感や痛み、発熱などから動くことがままならないくなるなど様々な症状のある病気です。
完治しうる類の病気ではないようで、発症後は症状に合わせて治療し続けていくしかないといいます。
また、発症以降は、病気の影響や治療などの負担から精神的にも負荷かかる状態であったそうです。
そういったことが後々体に影響を及ぼし、体調が急変し、そのまま帰らぬ人となった長嶋亜希子さん。
自殺説や相当な心労があったというウワサも出ましたが、本当のところは現在も分かっていません。
不用意なことは言えませんが、長嶋亜希子さんのご冥福をお祈りいたします。
他界した嫁・長嶋亜希子に長嶋茂雄が贈った言葉
画像出典元:JIJI.com
長嶋茂雄さんは、かつて長嶋亜希子さんに対しこんな言葉を残しました。
「恋なんてわからなかったけど、はっきりわかった。あれほど知的でウィットに富んだ女性は見たことがない」と。
長嶋茂雄さんの想いが伝わってくる言葉です。
結婚するタイミングで長嶋茂雄さんが、いかに長嶋亜希子さんを高く評価し、愛していたかがわかりますね。
そんな長嶋亜希子さんが死の淵に立ったとき、長嶋茂雄さんは「亜希子、亜希子」と名前を呼び続けたそう。
長嶋茂雄さんが、生前の長嶋亜希子さんに最後に贈った言葉は、「亜希子」でした。
野球界の超スーパースターであった長嶋茂雄さんとの結婚生活であるがゆえに、様々なことがあったでしょう。
喜びも悲しみも、楽しさも苦労も多くのことが起こったと思います。
様々なウワサが流れ、憶測が飛び交っていますが、夫婦には夫婦にしかわからないことが数多くあるでしょう。
最後に長嶋茂雄さんが贈った「亜希子」という言葉に、どんな意味が込められていたのかは、「神のみぞ知る」です。
長嶋茂雄と嫁・長嶋亜希子の教育方針エピソード
画像出典元:livedoorBlog
長嶋家の教育方針、それはなんとも長嶋茂雄さんらしいものでした。
それは「本人が無理だと思うまで何でも自由にやらせる」というもの。
つまりは、自主性を重んじるということになります。
自分で考えて自分で行動して、自分で気がついて次の行動に進む。
何事も自分で考えて行動したからこそ、自分の中に積みあがる経験値になる、ということなのでしょう。
この考え方は、言い方や表現方法が異なれど、しばしば一流アスリートの教育方針として出てくるものです。
松井秀喜さんやダルビッシュ有さんも、「できるだけ子供に任せて見守る」という育児の考え方を語っていました。
そんな方針の中で、例えば長嶋一茂さんは家の壁にのこぎりで穴を開けたり、ベランダを水槽にしようとしたり、様々なことをしたそう。
画像出典元:dmenu news
一見、破天荒な行動にも見えますが、こういった自由な発想から来る経験値は、子供のときにしか得ることができないものです。
大人になってからこのような行動を取れば、途端に「頭がおかしい」となってしまうでしょう。
こういった教育方針のお陰で、長嶋一茂さんのコメントは唯一無二の面白さを持った独自のものとして、世間でも広く受け入れられています。
子供のうちに自由で制限のない発想をアウトプットするからこそ、大人になったときの他人とは全く異なるアイディアや精神性が実現される側面もあるのだと思います。
異次元にいる一流アスリートでなければ見えないもの、その最たるものは教育方針なのかもしれませんね。
長嶋茂雄と息子・娘の家族仲・エピソード
画像出典元:YouTube
長嶋茂雄さんと家族の仲を語るうえで、避けては通れないことがあります。
それは、長嶋茂雄さんが何度も「球場に長嶋一茂さんを置いてきた」ことですね。
大好きな長男を、家族サービスの一環として野球観戦に連れ出す優しい父親の一面。
それが、野球に夢中になってしまったがゆえに球場に置き忘れて、自分だけ先に帰ってしまうのだから、周囲は大騒ぎ。
球団関係者も驚きを隠せなかったという話も聞きます。
これには、さすがの長嶋亜希子さんも「一茂はどうしたの!!」と烈火のごとく怒ったという笑い話があるほどです。
野球を愛するがゆえの、野球には誰にも止められない情熱があるからゆえのエピソードですね。
しかし、そんな長嶋茂雄さんも「人の子」とわかる子供とのエピソードがありました。
ペナントレースが混迷を極めた1994年の「明日の試合で勝った方が優勝となる世紀の試合、中日ドラゴンズとの10.8」でのひとコマです。
画像出典元:スポニチ
選手には平静を装い、「明日は勝った方が優勝だ!負けないぞぉ!」と激を飛ばしていた当時監督の長嶋茂雄さん。
とはいえ、「勝てば優勝、負ければ敗者」の大一番に流石に不安を感じたのでしょう。
試合前日に名古屋に来ていた長嶋三奈さんに、「これは一大事だ。三奈、今日は一緒にいてくれ」と頼みこんで、宿舎に一緒に泊まってもらったという逸話があります。
この話は、後日長嶋三奈さんが「後日談」としてテレビで語ったことのようですが、意外な一面に、より長嶋茂雄さんが魅力的に見えたことは言うまでもないでしょう。
娘との仲の良さや、娘にしか見せない父親の姿などがあるのですね。
長嶋茂雄さんと長嶋三奈さんは、その後も何度か共演もされていて二人がいい親子関係であることが見て取れます。
そして、この試合に勝って日本一になり、当時読売巨人軍に在籍していた長嶋一茂さんも長嶋茂雄さんを監督として胴上げしたシーン(上記写真)も印象的でした。
画像出典元:ORICON NEWS
さて、今回は長嶋茂雄さんの家族についてご紹介しました。
超スーパースターとしての見えない苦労や大変さもあったと思いますが、長嶋茂雄さんが野球を通して、ファンや日本全国に与えた勇気は計り知れません。
日本が誇る野球界のスーパースター・長嶋茂雄さんにこれからも注目していきたいと思います。
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